馬渡島は佐賀県の西北の位置にあります。南北4km、東西5km、周囲14kmで佐賀県の離島では一番大きな島です。
海釣りファンにはよく知られている島ですが、バードウォッチャーにも渡り鳥や野鳥の観察ができる場所としても知られています。
古来、朝鮮半島や大陸への航路の要衝であり、今に至るまで風待ち港・潮待ち港として重要な役割を果たして来ました。
約1万年前の遺跡といわれている切立遺跡や縄文時代の石鏃が発見されていることから、馬渡島には古代から人が住んでいたものと思われます。
佐賀県多久市出身の作家北嶋磯舟さんは「九州行脚 第五巻 謎の馬渡島」の中で「昔、田村麿将軍五代の孫、坂上清則というもの上野の国に住した。一條院の長徳三年に罰せられてはるばる九州に流された。とうとう松浦郷に入って流れついたのがこの島である。上野の国に馬渡という邑があったのでその名を取り馬渡島と名づけられた。」と書いている一方、
「本村の港を擁ぜる南方の一角に名馬が鼻と称する長いつき出た岬がある。昔、牝馬と牡馬の二つが、たてがみをふりたてて支那大陸から泳ぎついたところで、いつとはなしに島の名を馬渡と呼ぶようになり、その馬が日本最初の馬であったとも傳えらる。」とも書いています。
「民衆救済と仏教の歴史」(中屋宗寿著 (株)郁朋社 2006年10月30日)の(h)九州へ馬伝来と百済国情の中で 「この世紀に日本に馬が伝来したと推定されているようだ。500年代前半の九州地域装飾古墳である福岡県鞍手郡若宮町(現宮若市)の竹原古墳や、同じく福岡県浮羽郡吉井町大字富永の原古墳に舟にウマを乗せた壁画が描かれている。(中略) 装飾古墳の馬の絵は、馬の伝来が九州と密接な関係にあった百済と深く関係していることを示唆している。(中略) 古墳内の装飾壁画の中央に大海を渡る舟が描かれており、その上に馬を牽いた人物、(中略) 舟の下に荒波を表す(?)波形が描かれている。(中略) 朝鮮・対馬両海峡を渡るのは命がけだった時代に、馬を朝鮮半島から古代の船で運んできたのである。」と書かれています。
「日本の地名の意外な由来」(PHP文庫 日本博学倶楽部著)では『馬渡島という地名は大陸からはじめて馬が渡ってきたのがこの島だったので「馬渡る島」と命名されたということに由来しているといわれているが、いかにも大陸との関係が深い島らしい地名だ。実際この島は、中世から近世にかけて馬の放牧場として使われ、江戸時代には唐津藩の軍馬の放牧場だった。
だが、異説もある。源義家の甥にあたる中近江馬渡の庄・本馬八郎義俊が、白河上皇院政の時代に、延暦寺僧兵の強訴を防ぎ、冤罪でこの島に流され着いたことから、それまでの「斑島」を「馬渡島」に改めたというのだ。』と書かれています。
集落は港の近くの宮ノ本を中心とする南部の仏教徒の集落と、二タ松と野中を中心とする北部のキリシタンの集落があります。
キリシタンは文久元年(1860年)に長崎県西彼杵郡外海地方から移住して来たいう説もありますが、「謎の馬渡島」では天保六年(1835年)に島原の乱の時の孫で有右衛門 という人が平戸を捨てて、安住の地を求めて都合七人で田尻が浜に流れ着いたのが始まりと書いています。当時はキリシタンへの圧迫も厳しく、馬渡島にも監視所が置かれていて、七人は見張番士の踏絵の試練を乗越えなければなりませんでした。
森禮子さんは著書「キリシタン海の道紀行」の中で「それやこれや考えあわせると、十六、七世紀のキリシタン時代に馬渡島にも信者がいて、その子孫の潜伏信徒をたよって、西彼杵半島から移住したのではないか。。。」と書かれています。
16,17世紀の初期のキリシタンについては文献の多くが失われ、現在では確かめる術はなくなっていますが、近隣のキリシタンの状況を考えあわせると著者が主張されるように、初期のキリシタンが馬渡島に移住して来ていたとしても不思議ではないと思われます。
小さな離島で仏教徒とキリスト教徒が一緒に生活している例はめずらしく、過去には多くの軋轢があったことと思われますが、現在では怨讐を乗り越えて協力しながら平和で穏やかな生活を送られていることを垣間見る事ができます。
火野葦平原作の映画でカトリックの貧乏青年漁師と仏教の網元の一人娘との恋を描いた『裸足の青春』(1956年)は馬渡島をモデルにしているといわれています。
野中には長崎県平戸島の旧紐差教会堂の建物を移築再建したといわれている華麗な馬渡島教会堂があり、現在では馬渡島のシンボルのひとつになっています。
くんちといえば長崎くんちや唐津くんちが有名ですが、馬渡島でも毎年10月に馬渡くんちが行われています。地元の馬渡島小中学校も「くんち休み」になり、島をあげて行われています。
また、日本海沿岸を中心として伝わっている各地の「まだら節」の発祥の地といわれています。
主な産業は漁業で、フグ、イカ、ウニ、アワビ、サザエをはじめ色々な水産資源に恵まれていますが、馬渡島でも燃料油の高騰と魚価の低迷に喘いでおり、若い人達の島からの流出が続いていて、『若者の地元定着』を目指して島の活性化に取り組んでいます。
日本にはじめて馬がやってきた経緯や地名の由来については歴史書では確かめることはできませんが、実際に馬渡島に来てみて名馬の鼻などの景色を眺めながら島の歴史に想いを致すと、これらの馬の渡来伝説は強ち誤っているとはいえないと感じてしまいます。馬渡島はそんな雰囲気を色濃く漂わせるロマンと謎を秘めた島です。
是非とも一度足を運んで下さい。