◆ 馬渡島キリシタンの歩み

今、長崎県では「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録に向けて活動しています。

 

馬渡島の信徒たちの多くが現長崎県から移住してきていること、「佐賀送り事件」がキリシタン禁制中止のきっかけになった歴史や馬渡島教会堂が長崎県平戸市の紐差教会の建物を移築したことなどを考えると、馬渡島教会堂も世界遺産としての価値も十分にあると思います。

 

「馬渡島キリシタンの歩み」は行政の枠を超えて、馬渡島(佐賀県)も含めて登録活動をして欲しいという願いを込めてアップしています。

 

「馬渡島の歴史概略とキリシタンの歩み」は「『海の星』馬渡島キリシタン小史」(海の星学園同窓会編 1990年〈平成2年 〉 9月22日発行より抜粋したものです。

 

1 馬渡島キリスタン始祖 右衛門の入島

「鎮西町史」によると、馬渡島にキリスト教信徒が移住してきたのは寛政年間(1887~1800年)であるという。

 

長崎市外黒崎村のキリシタン有右衛門が、弾圧と迫害に堪えかねて、その子勘兵衛、孫元助ら7人で田平、今福を経てこの島に渡り、田尻に入植したのがはじめてである。

 

 

2「黒崎村」佐賀藩領の飛び地だった

外海町のド・ロ神父記念館を訪れた時に、玄関右手の庭の一隅に1米ほどの高さの古い石柱が立っていて、かなり字も摩滅していたが、はっきりと、「これより南佐嘉領」と読み取れる境界碑があった。

 

大村領の中に佐嘉藩の飛び地があるのは何故か。

1592年(文禄元年)豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、地元の山口三左右衛門という武士が、樫山、永田などの若者を率いて佐賀鍋島氏の部下となって従軍した。

鍋島氏の功績により秀吉からその地が鍋島氏に与えられ、以後佐賀藩の飛地となって深掘氏が支配することになった。

 

有右衛門を取り調べた島の目付や唐津藩役人も、詮議はしたに違いないが、突き返すこともなく住みつくことになったのではないだろうか。

 

取締がが厳しかったその時代に、有右衛門の入島はまさに命がけの冒険であり、神の摂理としか考えようがない幸運であり、なおまた、善意に満ちた島民の計らいであったというべきであろう。

 

3 キリシタン大移住の理由

天明の大飢饉は奥羽・北陸地方を中心に130万程の人々が餓死したと言われている。

 

外海地方でも、、、。

それで食糧難を逃れるために、五島、黒崎などのほか馬渡島方面にも命がけで転住して行ったという背景がある。

 

4 佐嘉領と大村領の「出津」キリシタン

外海地方でキリシタンが潜伏していたのは黒崎村、三重村、神浦村の一部であった。

村が大村藩と佐賀藩に分属していて、大村藩ではキリシタン吟味は特にきびしく行われたが、佐賀藩は大藩だけあって万事大洋で、「弊藩に異宗門の徒は一人もいない」と幕府に届出、絵踏も行われなかった。

 

明治4年の廃藩置県で、大村藩、佐賀藩の名称がなくなり、上、中賤津の土地の呼び名が出津(しつ)に統一され、榜示石も撤去された。

 

宗教、生活、民俗、風習、言葉などは尚現在までもその名残がある。

 

7 明治初期、馬渡島を訪れた外国宣教師たち

1ベルナルド・タデオ・プチジャン

2サルモン・マリ・アメデ神父

3ペルー・アルベル神父

4フェリエ神父

5マタラ神父

6ソーレ神父

7 プトー神父

8 ラゲ神父

 

8 馬渡島・お水帳の考察

明治初期のカトリック教会の洗礼台帳は、潜伏時代の洗礼を「御水」といった伝統に従って「御水帳」と呼ばれる。

 

現在までに判明している御水帳は

① 馬渡島

② 伊王島

③ 長崎市かげのう

④ 大曽

⑤ 大平

⑥ 褥(しとね)

⑦ 瀬戸脇

⑧ 生月方

のもので、これら御水帳は潜伏時代のキリシタン復活時代から明治初期の迫害の時代における貴重な資料であり、これらを総合的に研究することによって、キリシタン復活当時の教勢を的確に知ることが出来る。

 

 

御水帳は本人の祖父母まで記載され、年長者の場合は五代にわたる系譜がわかり、従って彼らの婚姻関係を明らかにすることができる。

また、出身地、出生、受洗地の記載は、子どもらの年令、出生地と合わせて信徒の移動状況も知ることができる。

まさに江戸時代から明治初期を通じ庶民資料として最も詳しいものであり、潜伏から復活へのキリシタン資料としても、また民俗学的に重要な資料である。

 

馬渡島の「御水帳」は三百二十六名を二冊に合綴したもので、三枚は白紙を挿んでいる。

1879年5月26日から、1897年までの間に記録されたもので、縦35.3センチメートル×横15.2センチメートル活版印刷である。

 

御水帳に記載された神父様方の名前は深堀、岩永、ハマタ(浜端?)、ほれいさま(?)、ラゲ、ソリ(ソーレ)、ペル、プト、フェリエ、マタラ、サルモン

水方の名前=みぎるじゅうぞう、まちやすいそまつ、ばすちゃんいわえもん、かんべい

帳方の名前=みかえるちょうきち

 

◆ 佐賀のキリシタン物語(佐賀新聞 昭和49年12月19日より) (同歩みより)

ー国際世論の憤激買うー

キリシタンの逮捕はなお続いた。

伊万里件(明治5年5月29日から佐賀県に改称)下の高島、蔭の尾島、大山、伊王島などの離島でキリシタン67人が逮捕されたのは明治4年8月から12月にかけてであった。

棒だたきの刑、割れ木だたきの刑、算木責の刑の拷問を受けて。

 

炭鉱仕事もさせられた。そして12月19日、佐賀に送られた評定所牢(ろう)獄に入れられた。

入牢のときに、全員裸にされ、着物の縫い目や、すそ、帯まで調べられ、祈り本、コンタツなど聖物を取り上げられた。

 

佐賀に出発する船の上で、願いがあればと聞かれ信者は「祈りだけはさせて下さい」と答えたという。

佐賀の牢屋は長屋を3.3平方メートルに仕切った4室で1室に十数人がすし詰めにされた。

 冬だというのに一室にふとん一枚だけ。食べ物は玄米食を小ザラに一ぱいずつ、日に三回、説得はあったが、拷問がないのがただ一つの救いであった。

 

この弾圧はこれまでのものや他地方のものと比べ、小規模であったが、明治政府は『深堀領キリシタン佐賀送り』といわれる事件が、世界的なニュースになろうとは夢にも思わなかった。

67人が牢に入れられた四日後の12月23日、条約改正の根回しに、岩倉具視全権大使一行が欧米に出発、国際世論の袋だたきに会うのである。

もっとも、出発前、長崎、浦上の信者三千数百人が流罪中で、政府は人道問題として外国公使団の矢継早の抗議を受けていた。

 

そして、12月30日付け長崎発行の外事新聞がキリシタン佐賀送り事件を取り上げ大々的なキャンペーンを張って追い打ちをかけ始めた。

『この事件に文明国の人々は同情と悲嘆を禁じ得ない』と切り出し、『日本の使節団が出航したが、各締盟国では、到着して苦い抗議を込めて迎えられるだろう』と結んだ内容であった。

 

 

ー佐賀送り事件ー

翌年、2月12日付けで英国公使パークスが、テレグラフ紙に「キリシタン迫害で日本人の名誉は失墜した」と書いた。

 

政府は導火線となった佐賀送り事件の関係者を即刻釈放せよーと通告、67人は翌年2月、46日間の牢屋生活から解放された。

改心していないのに、「改心のしるしが見えたから」という苦しい釈放理由であった。

 

政府は、明治4年11月、キリシタン逮捕をしたらただちに報告せよと各県に通告、以後、ひんぱんに情報収集につとめた。

 

明治になって馬渡島(東松浦郡鎮西町)にキリシタンがいたことが判明する事件が起こった。

明治5年8月5日、太政官内吏は多久茂族佐賀県権令に「唐津の島民(馬渡島のこと)のうち異宗門がいることがわかった。露見したので唐津出張所より捕縛方を出し異徒四人だけ捕縛の上、出張所へ引き出したーという報告がきたが、政府の意向になぜそむいたのか」という趣旨の文書がきたのだ。

 

佐賀県庁はびっくりして8月18日、折り返し、多久茂族権令の名で「全く唐津出張所員の不心得による暴挙だ。キリシタンは説得してすぐ帰島させた」と返事を出している。

 

四人が島に帰ってみると、島に残っていたほかのキリシタン二十八人は自分たちも捕まえられると恐れて集団脱走していた。

馬渡島村長はすぐ唐津出張所に相談した。同出張所は「探し出して帰島させ、家業に励ませるがよい。罪は問わない」と、もうこりごりといった返事をしている。

 

この島でのキリシタンの始まりは大村領《事実は佐賀藩領か? 管理人注釈》黒崎村から有右衛門というキリシタンがその子勘兵衛ら十人で潜入した寛政年間にまでさかのぼる。

その後、有右衛門をたよって隠れキリシタンが逃げてきた。

島は仏教徒のある本村(ほんそん)とキリシタンの住む新村にわかれ、明治7年には27戸167人の信者がいた。

 

明治になってなぜわかったかについては、すでに述べたように、寺、神社の拒否からであった。

戸籍帳編成禄の調査のときキリシタンには氏神、帰依寺がない。

さらに伊勢神宮の御幣交付を拒否したのである。

あれだけ厳しかった「宗門人別改め」は実に明治になって、形を変えて離島で行われ、発覚したのである。

 

一方、条約改正で欧米を回っていた岩倉大使はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ベルギーの各国からキリシタン迫害の中止勧告と抗議を受け続け、政府に電報でキリシタン禁制の中止を申し入れた。

 

こうして明治6年2月21日、250年続いたキリシタン禁制の高札はようやくとり払われ、文明開化の地ならしが進むのである。

 

そして、佐賀市の辻の堂講義所という二階建ての粗末な家で、佐賀での伝道が始まったのは明治14年8月のことであった。(昭和49年12月19日 佐賀新聞 より)

 

◆ キリシタンの島 ”馬渡” (西日本新聞 昭和40年5月13日より) (同歩みより)

祈りを告げる鐘

明治十二年に教会創設

移り住んだ信者

仏教徒をよそおう

高い海外雄飛熱

明治6年(1873年)キリスト教禁止の高札が撤廃されると同時に、新村の信徒たちは七十五年のベールを脱ぎ捨て、高らかに ”われらキリスト教徒なり” と叫んだ。

 

現在、同島の世帯数220、住民1,244人。

うち、カトリック信者は120世帯、約700人。

信者の祖先が長崎を初め平戸、五島など各地から移住してきただけに、進取の気性にとみ、海外移住が盛んに行われた。

とくに大正12年には8家族38人が、ブラジル移民、一時は18世帯34人で馬渡村がつくられたほどであった。

 

戦後、再び移住熱が復興、9代目の木村義己神父を中心に、27年から34年まで86世帯、289人がブラジルに渡って行った。

 

聖母園の建物は、さいきん新築され、ブロック平屋建てのスマートなものに変わった。

同島で初めての近代建築で、収容されている子どもたちは大喜び。

犠牲の血を流さなかっただけに、同島のキリシタンの歴史は明るく、教会に集まってくる信者たちの顔も平和に輝いているようだ。

 

”キリシタンの島” 馬渡は、永遠にその名を堅持して行くであろう。

 

 

        昭和40年5月13日付   西日本新聞より

 

 

 

◆ 馬渡小中学校の文化祭が開催されます。

平成30年10月20日(土)に恒例の文化祭が開催されます。 

今年のテーマは「Bloom ~1番の思い出」です。

 

みんなで応援しましょう。

 

◆ 離島留学生制度がスタート

平成29年度より、離島留学制度がスタートします。

 自然あふれる馬渡小中学校で学びませんか?

 少人数での丁寧な指導が本校の特徴です。

 皆さんの応募をお待ちしています。(馬渡小中学校のホームページより)

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ゲンコウの自生種は馬渡島にしかない希少種の柑橘です

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