著者の北嶋磯舟(本名 北嶋磯次:1881~1964年)は佐賀県多久市の出身、早稲田大学の一期生です。「九州行脚第五巻 謎の馬渡島」は昭和3年、福岡日々新聞社(現在 西日本新聞社)佐賀支局に勤務していた頃の作品です。
佐賀県天然記念物史蹟調査員を委嘱され、多数の紀行文を出版しています。日本赤十字社を創立した『佐野常民伝』や呼子鯨組についての『捕鯨王国』、佐賀藩の大砲・汽車・汽船についての「日本の文化へ」、『九州行脚』シリーズなどを出版しています。
序文
「鐘が鳴る。鐘が鳴る。おゝ 修道院の鐘が鳴るーーー。
かうした修道院の鐘のひびきと、血みどろになって禁欲生活の試練にあえぐ修道女の生活とにあこがれて、玄海洋上に馬渡島を訪ねたのは去る年の夏であった。行ってみると、思ったよりも純眞な彼女らの生活と原始的な島民の生活とはすくなかざる感興をわたしの胸にそゝり上げた。かつて、青春時代をキリスト教の禁欲生活に導かれてピュリタン生活をつづけたわたしは、蘇った過去の幻影に再び魅せられてしまった。
歸ってからすぐに、わが福岡日々紙上に發表した。ところが、世にはかゝる生活に共鳴するほど悩める女たちが多いと見へ、いや、悩まないまでも興趣をよび起こす人たちが多いと見へ、いろいろと共鳴した手紙が舞ひこんだ。わたしも行きたい。わたしも行ってその清い生活の一員になりたい。仲間入りの手續きを教へて下さいなどと、一時の氣まぐれでない眞險な訴へが聞かれるのがあった。わたしは、わたしの筆に共鳴された人たちの多かったのを見て、未見の知己として懐かしい感じさへした。
その後、こんな生活が世間に知られるとゝもに、同島を訪ふものがだんだん多くなり、近來は遊覧團まで行くやうになったのである。實は本記録は、先年來わたしが書きつゝある松浦灣は名所舊蹟傳説など書くのが餘りにも多く、多忙の身にはなかなか完成されません。今年は今年はと思ひながら未だに書いて居る。しかるに、今言ふように同島の訪問者が多くなったから、これらの人々のために案内役をさせるために、これをひきはなして一冊の本となし、こゝに刊行することとゝした。もちろん、數字などは現在にあらため、また、所々に新しく加へたところもある。
感興といふ上からいへば、初めに修道院のことを書き、次に天主教徒の最初の上陸社と村の教徒の生活を書き、それから外に及ぼす方がよかったけれども、遊覧者のために、上陸してからずッと島を一巡するに都合のいゝやうに、道順にしたがって書いたから、そのつもりで讀んで下さい。終わりに近づくにしたがって面白くなります。とにかく、感興のある島です。感じやすいわたしの胸にひそむ宗教生活の共鳴と、懐疑と、熱情とを思ひやって下さればこの上もありません。
昭和三年八月十日眞夏の日光を浴びながら
福岡日日新聞社佐賀支局にて
謎の馬渡島 目次
一 玄海に咲く十字架の花
二 島をいろどる流人の涙
三 影を浮べる緑の島々
四 太古のやうな自然享楽
五 佛耶の矛盾に苦む小學校
六 和洋折衷の姓名
七 異様な天主教の新村
八 島の草分け有右衛門
九 見張番士が踏繪の試験
十 美しい修道院の女たち
十一 男知らずの禁欲生活
十二 禁欲が産む豊滿な肉体美
十三 さながら純血と忍苦の繪
十四 淋しからずや道を説く君
十五 バテレン生活
十六 切仕丹の生き脂取り
十七 攻め寄せた蒙古軍の狂暴
十八 哀艶な赤色の戀
在島わづか三時間半、汗だくだくで走りまくった。これで島を辭するーー。
左様なら、謎の島よ! 修道院よ!
いつまでもいつまでも浮世の風にあてられず、神秘の幕につゝまれて平和なれ!
(終り)
以上「九州行脚第五巻 謎の馬渡島」から抜粋しました。
北嶋磯舟の人となりとその才能については「九州行脚 第二巻 火の國めぐり」の早稲田大学総長高田早苗博士序文の一節の中でを次のように書いていますので参考になると思います。
『君は小川未明、吉江喬松、杉森孝次郎、片上信緖君や永井柳太郎、三木武吉、大山郁夫諸君などと早稲田大学同窓の人である。(中略) 君は燃へるが如き情熱の人である。最も純な詩人肌の人である。如何なる無味乾燥な事柄でも一度君が詩人的情熱の火にかかれば忽ち息を吹き出して生きてくる。傳説然り、史實然り、自然の山河、隠れたる勝地、皆然りで藝術化し情熱化して人を魅了せねば已まぬ。其描寫の軽妙さ其情熱の豊かさ其筆觸の柔らかさ只々君に於いてのみ出し得る特異である。火の國の自然は君に依って初めて百年の知己を得たるの感があろう』と絶賛の筆を寄せています。